<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>花咲く都で</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://northshoretechnologies.net/atom.xml" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2012://4</id>
   <updated>2012-01-20T15:55:03Z</updated>
   <subtitle>ルネッサンスの巨匠たち</subtitle>
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.36</generator>

<entry>
   <title>食卓は子どもにとって&quot;心の栄養&quot;をとる場　2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2012/01/2_3.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.223</id>
   
   <published>2012-01-20T02:56:24Z</published>
   <updated>2012-01-20T15:55:03Z</updated>
   
   <summary>母親が趣味の会やテニス、バレーボールといったスポーツ・クラブに入っている・・・ ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      母親が趣味の会やテニス、バレーボールといったスポーツ・クラブに入っている・・・


あるいはボランティア活動に熱心な場合、昼食とか夕食を用意しておいて、子どもにさきに食べさせるというケースもめだちます。


東京・文京区のある小学校や板橋区の小学校では、こうした孤食児のために、ユニークな学校給食を実施しています。


学年のちがう子どもたちを4人ずつ向かいあわせにすわらせ、おしゃべりをしながら食事をさせるというものです。


そのために特別な食堂までつくったというのですから、学校側が孤食という間題をいかに深刻に受けとめているかがわかります。


あらためて考えてみるまでもなく、家族といっしょに食事をする、おしゃべりをしながら食事をするという、こんなごくあたりまえのことが家庭のなかでできていないところに、「豊かな食生活」のウラにかくされた貧しさが感じられるのです。


・・・と同時に、この孤食という問題は、食事とはいったい何なのかを考えさせられるテーマでもあります。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>食卓は子どもにとって&quot;心の栄養&quot;をとる場</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/12/post_27.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.222</id>
   
   <published>2011-12-02T02:55:59Z</published>
   <updated>2011-12-02T15:55:03Z</updated>
   
   <summary>子どもたちは、先生にしかられたとか、友だちとけんかをした、テストで悪い点数をとっ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      子どもたちは、先生にしかられたとか、友だちとけんかをした、テストで悪い点数をとったなど、緊張とストレスをかかえたまま家に帰ってくるはずです。


だからこそ夕食の団らんのときには、母親のあたたかな手づくりの夕食、そして、昼間の緊張をゆっくりとときほぐしてくれる親子の会話が必要なのです。


一見、たわいもないような会話のなかから、子どもたちは子どもたちなりにうっぷんを晴らし、同時に家の外の世界での生き方を学ぶのです。


子どもたちにとって食卓は、たんに空腹を満たす場所ではなく、&quot;心の栄養&quot;を吸収する場でもあるのです。


ところで、孤食児ということばがありますが、これは親兄弟の食事をとる時間がバラバラなため、ひとりぼっちでご飯を食べる子どものことです。


とくに両親が共働きの家庭では、夕食をひとりで食べるというケースが意外に多いのです。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の農業保護問題　5</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/11/5_1.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.201</id>
   
   <published>2011-11-19T02:18:00Z</published>
   <updated>2011-11-29T15:55:19Z</updated>
   
   <summary>後者について、その焦点となるのは・・・ 1．輸入アクセス(輸入制度) 2．輸出補...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      後者について、その焦点となるのは・・・


1．輸入アクセス(輸入制度)


2．輸出補助金


3．ガット・ルール


4．国内農業政策


5．交渉方式(AMS問題)


・・・この五点です。


アメリカの第一次提案が内外の農業政策の全廃を目ざす、きわめてドラスティックなものであることは有名ですね。


第二次提案もそうした完全自由化路線を忠実に踏襲・具体化したものとなりました。


つまり、それは


「農業の生産と貿易が、強化され運営上もより効果あるガット・ルールと規律に管理される市場志向の仕組みへと誘導する」


・・・ということを目標としたうえで、これを非関税障壁の関税化(いわゆるタリフケーション、tariffcation)として制度化したところに最大の特徴があります。


つまり、農業に関連したすべての非関税障壁を一挙に関税化することによって、これを完全自由化へのワン・ステップにしようというのです。


他方、これと平行して、国内政策についても、段階的に農業政策を縮小し、最終的に全廃へ持ち込むが、そのためにガットによる農業政策の規制を強化します。


こうした二面作戦からアメリカ案は成り立っているのです。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の農業保護問題　4</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/10/4_2.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.200</id>
   
   <published>2011-10-21T01:17:18Z</published>
   <updated>2011-10-21T14:55:06Z</updated>
   
   <summary>第一次提案が農産物貿易、農業政策のあり方を抽象的・一般的に論じたものであったのに...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      第一次提案が農産物貿易、農業政策のあり方を抽象的・一般的に論じたものであったのに対して、この第二次提案はこれを具体的な制度・規律・政策として体系化したものです。


それだけに各国案の対立が明確となっています。


中間「合意」が形だけのものにすぎなかったことが、これによってはっきりしたといっていいでしょう。


それでは、これら第二次提案の具体的内容はどのようなものであり、どこがどのように違っているのでしょうか。


また、それらを通じて、何が、どのように問題にされようとしているのでしょうか。


これら第二次提案の内容は、それぞれが個性的であるばかりでなく、第一次提案に比べてかなり複雑かつ詳細なものとなっています。


問題が具体的な制度・規則の次元に及んでいる以上、それは当然です。


しかし、ここではそうした細部にまで立ち入らないことにしましょう。


以下では、大まかに主要国提案の基本的特徴とその骨組みについてみていくことにしましょう。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>今で言うところの占い</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/09/post_32.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.250</id>
   
   <published>2011-09-11T07:20:08Z</published>
   <updated>2011-09-12T07:21:19Z</updated>
   
   <summary> 「マナはアリストテレスの自然やストア派のデュナミスの漠然とした形態であり、それ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      <![CDATA[
「マナはアリストテレスの自然やストア派のデュナミスの漠然とした形態であり、それは物であり、作用である。


・・・そしてそれは宗教と呪術の技法に共通な支柱である」


・・・と書いています。


要するにマナとは一種の超自然力・神秘的力で、その機能は、超自然的な仕方で人力以上に働く力であり、伝播力をもっていて、物体にも宿るものであり、かつ、善にも悪にも両方とも働く力です。


換言すればマナそのものは物質でなくて超自然力であるけれど、それが作用するときには物質力にも変ずる。


またマナは一定の物に定住しないで、いかなる物にも宿ることができる。


したがって太平洋諸島の原住民たちは、争闘して勝ったときにはその武力をマナの作用だと思い・・・


農作物や豚が繁殖するときにはその繁植力をマナの魔力だと信じるのです。


<a href="http://www.uranai-king.com" target="_blank">電話占いの詳細は＞＞</a>


]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>劇場の照明　2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/09/2_7.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.247</id>
   
   <published>2011-09-02T01:12:51Z</published>
   <updated>2011-09-02T14:55:03Z</updated>
   
   <summary>舞台装置とはいえダイニングキッチンを初めて目のあたりにしました。 この舞台装置は...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      <![CDATA[舞台装置とはいえダイニングキッチンを初めて目のあたりにしました。


この舞台装置は、それまでの日本では少なかった振って(斜めに角度を付けて)飾った(セッティングした)装置で新鮮さを感じました。


はっきりした記憶がありませんが、装置のデザイン資料は演劇課が提供してデザインは日本側でしたのではないかと思っています。


大道具の製作は歌舞伎の大道具の名門が専属で入りました。


実験劇場の運営にはアメリカ文学、アメリカ演劇の研究者も参加した組織で、駆出しの私にとって大変な勉強になった時代でした。


実はこのピカデリー劇場の勤務で最も勉強できたのが、大道具さんに巡りあったことです。


当時は、どこの劇場でも大道具と<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>などの照明は、どうしたわけか大変仲の悪い関係にありました。


]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>劇場の照明</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/08/post_31.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.246</id>
   
   <published>2011-08-25T01:11:36Z</published>
   <updated>2011-08-25T14:55:06Z</updated>
   
   <summary>敗戦後まもなくアメリカ演劇とアメリカの興行制度(プロデューサーシステムとロングラ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      <![CDATA[敗戦後まもなくアメリカ演劇とアメリカの興行制度(プロデューサーシステムとロングランシステム)を日本に導入。


定着させるのを目的として、G・H・Q(連合軍総司令部1ーマッカーサー司令部)の民間情報教育局演劇課がスポンサーになって演劇活動をはじめました。


当時イギリス占領軍が接収して、ピカデリーシアターと名前をかえていた有楽町の邦楽座という800人ほどのキャパシティーを持つイギリス式の劇場を、イギリス軍が撤退した後・・・


G・H・Qがピカデリー実験劇場という名称で公演をはじめました。


私はこれと同時にピカデリー劇場の照明部に入りました。


このときにはまだ<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>のような照明はありませんでした。


第一回公演は轟夕起子、北沢彪主演でアメリカ現代劇(もっともアメリカには古典劇はありませんが)「ヴォイス・オブ・ザ・タートル(山鳩の声)」。


アメリカの中産階級の家庭を題材にした芝居で、装置はダイニングキッチンの景。


司令部の演劇課から貸与された電気冷蔵庫と電気掃除機は珍しいものでした。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の農業保護問題　3</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/07/3_2.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.199</id>
   
   <published>2011-07-03T01:16:43Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:07Z</updated>
   
   <summary>形式的には合意であっても、実質的には同床異夢の作文に近いのです。 関係各国がそれ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      形式的には合意であっても、実質的には同床異夢の作文に近いのです。


関係各国がそれぞれ自国に都合のよいように解釈する余地を多分に残し、基本的対立はほとんどそのまま次の交渉局面へ持ち越されたといっていいでしょう。


それがより具体的な制度・政策提言という形をとって現実化してくるのが、89年後半以降の各国の第二次農業提案においてです。


第二次農業提案世界農業戦略中間レビュー後ほぼ半年の休戦期間を経て、89年9月から農業交渉が再開されました。


10月のアメリカ案の提示を皮きりに、年末にかけて関係各国の第二次提案が相次いで発表されました。


・・・農業交渉はいよいよ最終局面を迎えたのです。


提示されたのはアメリカ、EC、日本、スイス、ケアンズ・グループ、韓国、北欧、オーストリアの八つの提案です。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>外壁リフォームの技術　2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/07/2_6.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.244</id>
   
   <published>2011-07-01T03:02:13Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>白土と石灰に対しては、窃の他にいま一つ重要な補助材料・・・ つまり糊(能理)料が...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      <![CDATA[白土と石灰に対しては、窃の他にいま一つ重要な補助材料・・・


つまり糊(能理)料が加えられます。


白土に対するものとしては、例えば石山寺において、三升白土五斗合料下白米六升三升赤土五斗合料右仏堂塗料(『古文書』)とあります。


そのほか、白米を白土に混入する「能理」に充てた例が頻出します。


一方、稀ではありますが・・・


例えば法華寺において、荒皮壱領井用堂柱白土塗膠料井合煎(『古文書』)とあり、膠も白土の膠着剤として使用された例のあったことを推測させます。


石灰に関しては特に明瞭な記録が見出せません。


わずかに興福寺において、石灰一斗ニ升胡粉下塗用炭ニ百六十斤膠解温料(『古文書』)と記され、石灰と並んで膠を溶解するための加熱用の炭を計上していることから、やはり膠がその糊料として用いられていたことを推測させます。


・・・特にこの場合、膠は胡粉の固結材に充てられたものかもしれず、石灰に混入されたという決定的証拠とはなりません。


この時代にはもちろん<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>技術はまだ存在していません。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>外壁リフォームの技術</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/06/post_30.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.243</id>
   
   <published>2011-06-24T03:00:52Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>麻に関しては、法華寺において、熟麻ニ百斤石灰井白土料(『古文書』)とあります。 ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      <![CDATA[麻に関しては、法華寺において、熟麻ニ百斤石灰井白土料(『古文書』)とあります。


石灰・白土ともに熟麻の使用が知られるほか、随所に「白土之藁料」あるいは「白土料」として麻が計上されています。


また同じく法華寺において「紙若干張」が、石灰土藁料(『古文書』)と記されているので、紙の使用もまた疑いないところです。


・・・さらに興福寺においては、「赤土・石灰・椿灰」と併記し「紙麻弐百参拾5斤5両」が挙げられている(『古文書』)のも、おそらく同じ用途に充てられたものでしょう。


・・・このように当時の上塗用のスサは麻または紙に限られるのですが・・・


唯一の例外として石山寺の「菩薩並御座磯形」の白土上塗において、「白土料麻五十斤」の代用として「蒲花壱百枚」の充てられたことがあります(『古文書』)。


「蒲花」はおそらく法隆寺金堂で見た蒲の穂に当るものであるでしょうが・・・


麻と紙が今日までひきつづきスサ材として使用されているのに対し、蒲はこれを最後に、遺構からも文献資料からも全くその跡を絶っています。


このため、<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>などの技術はまだなかったものと考えられます。

]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の農業保護問題　2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/06/2_2.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.198</id>
   
   <published>2011-06-15T01:16:07Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>とりわけこうした形式的指標にとって致命的なのは、農業の非経済的要因がまったくカウ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      とりわけこうした形式的指標にとって致命的なのは、農業の非経済的要因がまったくカウントされていないことです。


・・・とするならば、これらの要因を考慮した、参加各国が納得しうるAMSがはたして作成可能でしょうか。


次に、交渉上の問題としては、AMSを同水準にすることがはたして実質的な公平になるのかどうかという問題があります。


それぞれの参加国の国内農業の構造は歴史的にも、社会経済的にも大きく異なっているがそうした問題を捨象し、これを価格指標だけで形式的に揃えようとするのはかえって実質的な不平等を助長することになるのではないでしょうか。


もともと、このAMSという発想を強く主張したのはECでした。


ECは、一方ではこれにより域内の農業保護を抑制し農産物過剰に歯止めをかけるとともに、他方ではこれを国際交渉の指標とすることによって共通農業政策への批判をかわそうとするねらいをもっていました。


これにアメリカが部分的に同調する形で成立したのが以上のAMS合意ですが、これを交渉の具体的指標とすることは上述のようにさまざまな難点があります。


以上にみたように・・・


農業中間レビューの内容を仔細に検討すれば、そこには合意・妥協よりもむしろ対立・矛盾のほうがはるかに多いのです。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>世界の農業保護問題</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/05/post_26.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.197</id>
   
   <published>2011-05-29T01:15:09Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>各国の農業保護削減の指標とされるAMS(総合的保護計量手段)のあつかいについて。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      各国の農業保護削減の指標とされるAMS(総合的保護計量手段)のあつかいについて。


中間レビューは各国の農業保護を協調的に削減していく手段として、AMSをなんらかの形で利用することに合意しています。


関税率と同じように、AMSを各国の農業保護の程度を計量的に示す指標として位置づけ、これを基礎として保護引下げ交渉を展開しようというのです。


しかし、これについてはさまざまな問題があります。


まず、AMSとはなにかという問題です。


これに類似したものとして、かつてOECDにおいてPSE(生産者補助相当額)、CSE(Consumer　Subsidy　Equivalent、消費者補助相当額)が試算されたことがあります。


しかし、その妥当性については、日本をはじめ各国からさまざまな疑問が出されています。


これらの指標の基礎となっている国際価格が輸出補助金によって歪められているのではないか、為替レートの変動をどうカウントするのか、各国の農産物自給率を考慮していないのではないか等々です。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日本の歌　4</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/04/4_1.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.184</id>
   
   <published>2011-04-17T02:58:42Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>海人部の伝承から出た、海岸性に富む古代歌謡の代表的なものには、次のような例があり...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      海人部の伝承から出た、海岸性に富む古代歌謡の代表的なものには、次のような例があります。


仁徳天皇は吉備の海部の直の娘で黒日売という美人を召して使っていられたが、大后石の比売の嫉みを恐れて吉備へ逃げ帰ってしまいました。


天皇は黒日売のあとを追っていって淡路島からはろばうと海の彼方を望んで歌いました。


おしてるや　難波の崎よ　出で立ちて　わが国見れば　淡島　おのごろ島　濱榔の島も


見ゆ　さけつ島見ゆ


・・・この歌は、古事記の中では、天皇が黒比売を恋しく思って淡路島から西の方の海を見渡して詠んだと伝えています。


しかし本来は、海人部の民の伝承した海上の国見の歌でしょう。


それが難波に都を開いた仁徳天皇に関して伝えられているのです。


紆明天皇に関して香呉山から大和国原を国見した歌がありますが、難波の突端からはろばうと海の国見をするのに最もふさわしい天子は、仁徳天皇です。


歌に詠まれている淡島もおのごろ島も実在の島というよりは国生み神話の中に伝えられる島です。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日本の歌　3</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/03/3_1.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.183</id>
   
   <published>2011-03-17T02:53:48Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>日本人は海洋民族だといわれます。 しかし、実際に文学の上にあらわれた日本人の海洋...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      日本人は海洋民族だといわれます。


しかし、実際に文学の上にあらわれた日本人の海洋性はきわめて貧弱なもので、山崎正和氏の言うようにせいぜい海岸性とでも言うべき程度にすぎません。


まだ上古の時代は海に対する意識はかなり積極性を持ち、感じ方も健康ですが、中古あたりになると海は恐ろしいもの、妖怪や、暴風雨や、海賊の恐怖に満ちた場所としてゆがんだ形でしかとらえられなくなってしまいます。


しかし、日本人が本来そういう民族性しか持ちあわせていなかったわけではありません。


また中古以後の時代においても、広く海に接した生活圏の中で生きてきた人々は、海への積極性を失なっていはしません。


ただ、海のない大和、山城へ都を陸封してしまった宮廷と、宮廷を中心とする貴族文化が極端に海への健康な感覚を衰えさせたのにすぎないのです。


古代の海の歌、海の文学をはぐくんだものは海人部の民です。


海人部は単に海岸の生活者をさすだけではなくて、南西諸島から中国南部の海岸、そして日本の海岸部を広くおおって分布した海の民族です。


その習俗、習慣を持っている文化の点でも平野部や内陸部の人々とは歴然と違った性質を持っていたはずです。


特に分布の濃密なのは九州の北海岸、瀬戸内海、伊勢湾、伊豆、霞ヶ浦などでした。


      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日本の歌　2</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://northshoretechnologies.net/2011/02/2_1.html" />
   <id>tag:northshoretechnologies.net,2011://4.182</id>
   
   <published>2011-02-17T03:52:33Z</published>
   <updated>2011-07-07T03:23:08Z</updated>
   
   <summary>前回紹介した歌を見ていると、結び松に宿っている魂に対する感じが、有間皇子の事件が...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://northshoretechnologies.net/">
      前回紹介した歌を見ていると、結び松に宿っている魂に対する感じが、有間皇子の事件があって後になると大きく変ってくることがわかります。


それまでは単に松に宿る道の神であったものが、新しくうらみを残して世を去った皇子の鎮まることのない魂が従来の道の神の信仰の上にかさなり・・・


後々の道ゆく者の心に大きく働きかけ、人々は松にまつわりついて残っている皇子の魂に歌いかけ慰撫して通ろうとしている感じが強いですね。


最後の人麻呂歌集中の歌の詠まれた大宝元年は、有間皇子の死後43年の後です。


かつて有間皇子の事件の前には、


君が代もわが代も知るや岩代の丘の草根をいざ結びてな


・・というふうに、わりあいのどかに歌われた結び松は、有間皇子を意識することによって、非常に違った激しい内容を加えて、道の神としての新しい性格を道行く老の心に及ぼすようになっています。


こういう路傍の精霊は、日本中の村々の道の随所に蛎鋸していて、後の道ゆく者たちの心の上に影響を与えつづけました。


従ってそういう霊の居るところには、また新しい旅中の死者の霊が加わることになり、更に道に倒れ死んだ牛馬の霊すら塚を設けてまつられるようになっていくのです。


      
   </content>
</entry>

</feed>

